RitsukiFujisakiGallery

“If the accident will” by MIZUKAMI Emi from 20230429 to 20230528


 

 Ritsuki Fujisaki Galleryでは、2023年4月29日(土)より5月28日(日)まで、水上愛美による個展”If the accident will”を開催いたします。

作家ウェブサイト

http://mizukami.main.jp/

 
 

Fatal power of narrative

 

 タイトル、“If The Accident Will”は、Kurt VonnegutによるSF小説、『Slaughterhouse-Five』(1969)中の台詞『偶然の気まぐれにより、私達がいつかまた平和で自由な世界のタクシーの中で出会う日が来ることを心から待ち望んでおります』(原文: I hope that we’ll meet again in a world of peace and freedom in the taxi cab if the accident will.)からの引用だ。

 

同小説の中では、主人公であるBillyが第二次世界大戦中のドレスデンの森や戦後アメリカのペントハウス、トラルファマドール星のエイリアンが作った星の動物園などに時空間旅行を行い、自由意志から解脱した死生観を基に人生を立脚させる姿が描かれている。

 

本展示は、11つの絵画作品と2つの立体作品によって構成されている。

 

 水上の絵画作品は、様々な地域、時代のイメージを引用、改変またオリジナルで作られたナラティヴを描き、それらを上からナミブ砂漠の砂で塗り固めることを数回繰り返している。 本テキストでは、彼女の作品に対して、幾つかの補助線を引きたいと思う。

 

 まず、水上の作品には、それぞれについて異なる時空間≒世界線が存在している。そしてその世界では、あらゆるナラティヴ、例えば、イーリアスや千夜一夜物語、記紀、スローターハウス5のような古今東西の神話や物語、またはビュリダンのロバのような思考実験、縄抜けマジックやトランプゲーム、核分裂、龍の尻尾などのモチーフがフラットに引用、改変または創出され、1層毎にナラティヴが構成され、ある部分は砂によって塗り潰され、ある部分は表面に残る。 『消されたデ・クーニング』(原題: Erased de Kooning Drawing (Robert Rauschenberg, 1953)は、ドローイングを部分的に消し去り、その痕跡を残すことで作品として成立しているが、これは元のドローイングペーパーを生産された状態に戻す方向に意図されている。 一方、水上の作品は、上から塗り潰すことによって、消されることよりも寧ろ積層されることへの意志を感じさせる。 そして、それぞれの層は本来の物語から変換され、時系列がめちゃくちゃになっており、描く順番は決められているものの、アドリブに塗り重ねられる。(実は幾つかの層は回転されている) それは、歴史の生成過程との関連を感じさせ、絵画単一に凝集された時空間の豊かさを示している。

 

層の間を構成するナミブの砂はどうだろうか。 水上は、ナミブ砂漠の砂が抱えている幾つもの情報や絵の具を打ち消す物質性に着目している。 砂漠の砂は常に衝突を繰り返しながら移動し続けている。 神話の一つの生成過程として、地理的、言語的な広がりを通して、ある部分は追加され、ある部分は捨象され、キメラ的に生成が行われることは、この砂漠の砂の性質と近似しているように感じられる。

 

引用される様々な神話や物語、また水上自身により生成されるナラティヴは、バナナ型神話のような類型に回収されつつも、現在における断面(絵画の最前面)に表出しているその残滓(全容の分からないナラティヴの一部、最前面以外の層)や所々に見られる砂そのものは、全体としては一見統一性のないものに見える。 その統一性のなさは、様々な時間や選択を通して、結果として出現している一つの断面であり、我々が対峙している世界の複雑さ、全容の見えなさを表象しているといえる。またそのベクトルに注目した時、これは鑑賞者に向かってナラティヴが緩やかに接近していることを示している。 その姿は正に、水上により恣意的に作られた世界線の歴史と対峙する人間の姿だろう。

 

本展のタイトル案として、当初は”Poo-tee-weet”があった。 これは前述の『Slaughterhouse-Five, or, The Children’s Crusade: A Duty-Dance With Death』(1969)のラストで小鳥が発する言葉だ。 運命論に基づいた安寧、予定調和を意味のない言葉が破壊する無常さは、水上の制作に通底する感覚であると言えるだろう。