“On being an angel” by ISHIBASHI Motoko and TSUCHIYA Urara from 20220903 to 20221002
Ritsuki Fujisaki Galleryでは、2022年9月3日 (土) より10月2日 (日) まで、 石橋征子と土屋麗による二人展、”On being an angel”を開催いたします。
本展では、イギリスを拠点とする両作家が、2022年にアーティストインレジデンス(滋賀県立陶芸の森)にて滞在制作を行なった、陶芸作品とこれまで共作を行っている写真の新シリーズを発表いたします。
本展のタイトルである、”On being an angel”は、ニューヨークの写真家であるFrancesca Woodman (1958年-1981年) が1977年に展示を行なった作品のキャプションから取られています。
彼女は、ジェンダーやセクシュアリティ、アイデンティティの構築などのテーマに対する、曖昧さや亡霊のような効果を表現した写真作品で知られています。
本展は、彼女の一連の作品を引用しながら、ジェンダーやクィアネスといった領域をはじめとした、社会規範の揺らぎが増大する中で、現代における社会への態度を色濃く示しています。
展示の中では、妖怪や怪談、自然、お面、蚊帳といった日本的なモチーフが、撹乱的かつ挑発的な方法により、暴力性とユーモアを纏って提示されます。
両作家のこれまでの展示については下記をご参照ください。
以下に、文化研究者として知られる山本浩貴による展評を記載いたします。
The love that dare not speak its name
「言葉にするのが難しい」——Ritsuki Fujisaki Galleryで開催中の石橋征子と土屋麗による二人展「On being an angel」——この展覧会は、石橋の陶芸作品、土屋の陶芸作品、両者のコラボレーションによる写真作品とインスタレーション作品から構成される——を最初に鑑賞したときの率直な感想である。そして、その感想はこうして展評を書き始めた今も大きくは変わっていない。それは、ある意味ではきわめて自然なことであると言える。なぜなら、当然と言えば当然のことだが、アートは必然的に言語化できない部分を含むからだ。しかし、本展にまつわる言語化のしにくさには別の理由も存在しているように思われる。その理由にこそ石橋と土屋のねらいがあると評者は考えており、本稿はこの点を中心にして議論を敷衍したい。
そのために、2本の補助線を引く。1本目は作家についてのそれだ。石橋も土屋も、現在、イギリスを拠点にアーティスト活動を展開している。また、両者とも美術教育は国外で受けた。1987年生まれの石橋は日本の大学で美学や美術史に接し、2010年に渡英してロンドンのスレード・スクール・オブ・ファインアートやロイヤル・カレッジ・オブ・アートで絵画を学んだ。評者もロンドンで学んでいたこともあり、石橋の平面作品を何度か実際に目にする機会を得た。男性、女性、あるいは男性とも女性とも判別できない人物の臀部——ときに股下——のクローズアップが描かれたそれらの絵画は鑑賞者に強烈なインパクトを残すと同時に、私たち(ここで、評者はこの「私たち」という言葉をほとんど性やジェンダーに関わる「マジョリティ」と同義で用いる)が抱くセクシュアリティにまつわる二項対立や固定観念に挑みかかってくるように感じた。本展会期前後の2022年夏、石橋は土屋と一緒に焼き物で有名な信楽にある「滋賀県立陶芸の森」が主催するアーティスト・イン・レジデンスに滞在した。そこで初となる陶芸作品に挑戦し、その一部は本展に出展されている。
1979年生まれの土屋はロンドンのゴールドスミス・カレッジでファインアートの学士号を取得し、その後はスコットランドにあるグラスゴー・カレッジ・オブ・アートの大学院に進学した。土屋は現在もグラスゴーを拠点にしている。あえて既存のカテゴリーを援用するならば、土屋の活動領域は「陶芸」「パフォーマンス」「ファッション」の交錯する地点に位置づけられる。しかし、確立された領域をはみ出す土屋の「異端性」は、そのいずれのカテゴリーも等しく蹂躙する。土屋のシグニチャーともなっている着彩されたセラミック作品には、男性の裸体と彼の性器をもてあそぶ可愛らしい動物たち、あるいは木に登る裸の男女が登場する。石橋の絵画と同様、それらはセクシュアリティをめぐる私たちの思考をめちゃくちゃにかき乱す(queering)効果をもたらす。
このように、ジェネレーションやバックグラウンド、さらには中心的に使用してきたメディウムという点で両者は多少異なっている。しかし、コラボレーションを通じた作品制作は本展で3回目となるという。その背後には、当然ながら、石橋と土屋の芸術実践に通底する「何か」が潜んでいるのだろう。その「何か」は、本稿で論じていくように、それぞれの作品にも本展における両者のコラボレーション作品にも明確に表出していると評者は考えている。
2本目の補助線は、展覧会タイトルについてだ。本展タイトル「On being an angel(天使であるということについて)」は、アメリカ生まれの写真家であるフランチェスカ・ウッドマンが、1970年代後半に行った自身の展示に際して使用した作品キャプションの言葉に由来する(この言葉は、2016年から17年にかけてスウェーデン・ストックホルムで開催された大規模な回顧展のあとに刊行された作品集のタイトルにも採用されている)。1958年に生まれたウッドマンは若くして頭角を現し、1981年に22歳の若さで投身自殺を遂げた。彼女の写真作品は大半がモノクロームで、自身か女性モデル(ときに動物)を被写体として写す。シュルレアリスムや象徴主義といった過去の芸術運動からもインスピレーションを受け、廃墟のような無機質な場所を舞台として撮影されたウッドマンの作品では、しばしば被写体の動きがブレを伴ってダイナミズムのなかで結晶化されている。その点で、本展に展示された、作家自身が被写体として現れる石橋と土屋のコラボレーションによる写真作品——すべてではないが、いくつかの写真には、鑑賞者に襲いかかってくるような、あるいは2人のインタラクションがつくりだすダイナミズムが前景化されている——と類似性を有する。あるいは、作品にそこはかとなく漂う虚無主義・デカダンスのぬぐいがたい雰囲気も、一見してわかる両者の共通点であると言える。
そのような観点から、フランチェスカ・ウッドマンに関連するフレーズが本展において引用されていることは納得がいく。だが、さらに本質的な類似性や共鳴が存在していると評者は主張したい。ウッドマンの写真作品は、きわめて「アセクシャル」であることを特徴とする。すなわち、そこでは「男」と「女」という既存の二項対立を疑い、撹乱し、解体していく側面が際立っているのだ。「On being an angel」展における石橋と土屋それぞれの陶芸作品も、両者のコラボレーションによる写真とインスタレーションの作品もまた同様に、私たちが自明視しているさまざまな二項対立やその要素となるカテゴリー自体を脱構築していく推進力と動性を備えている。さらに、特に2人のコラボレーションを通じて制作された写真作品には民俗学や宗教学からの影響も感じられ、「セクシュアリティ」のみならず、「暴力」や「儀礼」、「精霊」や「自然」といった概念に関しても、その再考を迫るようだ。かなり大きなパースペクティブから眺めれば、石橋と土屋の試みは「近代」——上記の諸概念は、いずれも近代化のプロセスのなかで形成されたものであるように思われる——とは異なるオルタナティブな世界やコミュニティのあり方を示唆しているのかもしれない。
冒頭では、本展にまつわる「言語化のしにくさ」について言及した。だが、そもそも石橋と土屋の芸術実践がこれまでに構築された二項対立や枠組み、概念そのものの解体への挑戦であることを鑑みれば、それも理の当然である。こうした実践を私たちの「手持ちの」語彙で表現することは、それ自体が失敗を運命づけられた試みであるからだ。
本稿タイトルに掲げた「The love that dare not speak its name(その名を口にできない愛)」は、アイルランド出身の詩人・作家であるオスカー・ワイルドの男性の恋人だったアルフレッド・ダグラスの詩「ふたつの愛(Two Loves)」に由来する。一般的に、このフレーズは同性愛の婉曲表現として知られる。同性愛が異端ないしは異常とさえ考えられていた当時の社会状況において、それは文字通り「その名を口にできない」愛の形式であった。本展を鑑賞し終えたあと、この言葉を少し異なる意味で解釈することができるのではないかとふと思った。人間の愛のかたちの多様性と複雑性は、観念や概念として十全に言語に置き換えることはできない。かつ、それはつねに変化の可能性にさらされている流動的なものである。その意味で、人間の愛を有限個の固定化された枠組みのなかに押し込めて分類しようとすること自体が、はなから無謀な営みではなかったか。当然ながら、同性愛者を含むセクシャル・マイノリティの人々が迫害されてきた歴史を忘れることは許されない。しかしそのうえで、あらゆる愛は「the love that dare not speak its name」であると、私たちは認識する必要があるのではないだろうか。
本展「On being an angel」において、参加作家の石橋征子と土屋麗は「愛」だけではなく、「性」や「暴力」など、今存在している多種多様な概念に疑義を突きつけ、それらをオープンなままに保持しているように思われる。そして、そうすることによって、複数の別の回路への接続の可能性を探っているかのようだ。そうした試みを目撃して、評者は文化研究の領域ではよく知られる、「the love that dare not speak its name」という概念を再解釈する、新しいアイデアに思い至ったのであった。本展のもつ可能性は、まだまだオープンなまま、多彩な接続の回路をたたえている。
以下に、美術批評家として知られるSam Mooreによる展評を記載いたします。
無題 あるいは足下の地面
I
幽霊の一般的な説明は、時間に囚われた魂という考え方です。何らかの方法で安らぎを得るまで、延々と同じ行動を繰り返します。安らかな眠りにつくまで。
人間は土から作られるという話もある。失われた魂は、森の床や海の一滴となる。海に身を沈めるたび、森を歩くたび、その足音は歴史に刻まれ、古代の眠りを妨げるのだ。
II
何世紀も前に作られた網に顔が隠されている。時間はもはや抽象的なものではなく、物理的、身体的なものである。この年季の入った網が皮膚に接触するのを感じることは、歴史そのものに捕らわれることである。この網に触れたすべてのもの、この網を通り抜けたもの、そしてこの網に留まったもの。
私たちが触れるものは、すべて呪われているのです。蚊帳を吊るしたり、豚の顔のマスクを作ったりしながら、数週間後、数ヶ月後、数年後、数百年後にやってくる人、何かを待ち、私たちの手形を持つために、無限の、静かな、会話の中で次の指紋があるのである。
蚊帳は空間に吊り下げられているが、時間の中にはない。色とりどりの布がきつく引っ張られることによって支えられている。網は森や海のイメージで飾られ、仮面の人物は大地から現れ、大地へ帰っていく。一方は何世紀も前のもので、もう一方は数週間かせいぜい数ヶ月のものだ。しかし、これは過去と現在が出会っているのではない。網だけが存在し、写真は過去の凍結された断片である。ポラロイドの亡霊は、凍りついた顔が誰かの視線と出会うことで生き返るのだ。
それは、自分自身を時間の中に凍らせるという本能のようなものだ。携帯電話を取り出して写真を撮る。携帯電話を取り出して写真を撮れば、日付、時間、場所まで記録される。自分を幽霊にするのは、かつてないほど簡単なことなのだ。
III
巨大な木に登っている人間たちがいる。バックパックを背負っている一人を除いて、全員全裸だ。幹の根元には動物がいたり、木からぶら下がっていたりする。ある人間は猿を膝の上に乗せ、その毛皮のような手は、似ていると同時に異質で、彼らの裸の背中に預けられている。まるで、動物が知恵を授けてくれたかのように、次の段階を理解し、次に来るものと折り合いをつけるということを意味している。
過去、現在、未来という区別は無意味であり、すべての時間は同時に起こっているという説がある。もしその説が本当なら、人間であることは幽霊に取り憑かれることであり、いたるところに過去のものが溢れ、幽霊とは言えないような幽霊が私たちの間を歩いていることになる。
割れた花瓶の中には、ぼやけた裸の身体と、その首に巻きついた蛇のようなものが写っている。そのイメージはずっとそこにあったかのように見える。まるで誰かがそれを叩き割って写真を見つけたかのように、それが過去の遺物なのか、それともこれから何世紀も明らかにされることのないものなのかわからない。すべてが一度に起こっている。森の中の幽霊たち-マスクや網で顔を隠し、水辺で足を休める-写真に収められただけでなく、木々の間にまだ存在している。
ホラー映画で、地底から手が出てきたり、海底から怪物が現れたりするのは、ジャンプ・スケアーの古典的な終わり方である。
13日の金曜日』のラストでは、死んだと思われていたジェイソンが、母親を殺して暴れまわる動機となったキャンプ・クリスタル湖の水面から飛び出してくる。潮の満ち引きで流された過去と思われていたものが、激しく現在に、そして未来によみがえる。同じリズムが繰り返され、再生される、亡霊のようなスラッシャーの続編は、仮面の男に安息の希望を与えることはない。
IV
ゴーストストーリーは時間に縛られている。過去は過ぎ去ることなく、未来は到達することが不可能に思える。その結末は、決して前を向くことができず、引き戻され、サイクルの繰り返しとなる。かつて呪われた夫婦の間に生まれた子供は、左の眉毛に閉じない傷のような痕がある。
死は自分自身を追いかけ、前方に長い影を落とす。
森の中の人物は仮面をつけているが、決して顔に近づけようとはしない。安全で不安定な距離を保っている。まるで、この新しい顔に接触することが、その顔になることであるかのように。水中圧力のような過去の重みが、未来への不確かな歩みを押しとどめる。未来と過去は、互いに歩調を合わせ、同期していることに気づく。
紅葉を踏むと、心地よい音がする。足元がカサカサと音を立てる。何度も枝から落ちた葉っぱが 春になると再び姿を現し、地面に落ち、登山靴に押しつぶされ、何度も何度も繰り返される。風景は、その端に、その間の不確かな空間に留まる人影と同じくらい幽霊のようなものだ。私たちの足の下にある地面は、時を越えて反響し、私たちに戻ってくる。粘土と塵に戻る。私たちが今いる場所、これからいる場所、これまでいた場所。