RitsukiFujisakiGallery

“Banned Toys” by YAMAMOTO Kazuma from 20220528 to 20220619




2022年5月28日 (土) から6月19日 (日) まで、山本和真による個展「Banned Toys」をRitsuki Fujisaki Galleryで開催します。

山本和真は1998年東京都生まれの現代アーティスト。山本がこれまで惹かれてきたのは、インターネットユーザーのあいだで複製を繰り返される過程で悪意や攻撃性を付与されたり意味合いを変えていく「ミーム」(meme)や映像コンテンツ、とりわけホラー映画のもつ「不気味さ」「薄気味悪さ」「居心地の悪さ」。

山本の作品には、嗜虐性と愛らしさが不穏なまま共存しています。描かれている図像の意味が容易に把捉できない山本のスタイルは、山本が影響を公言しているイタリアのサンドロ・キアら「3C」と呼ばれる作家たちのトランス・アヴァングァルディアや、ドイツ新表現主義の作家ジグマー・ポルケを想起させます。また幻想的な側面と、幼児の落書きのようなラフなタッチの側面とともに、北方ルネサンスの写実性が同居しているのも山本の作品の特徴です。モチーフの非現実性や、意図的に導入されている拙いタッチとは別に、いわゆるリアリスティックな描写も写真的なダイナミズムを欠き、どこか冷たく佇んでいるのです。



今回の展示のタイトルである「Banned Toys」とは、玩具として売り出されながら使用者の身体に対して有害性があるとみなされて販売を禁止され、場合によっては所持することすら処罰の対象とされた商品を指す言葉。日本語では「有害玩具」として総称されるもののことです。意志を持って動き回り、互いにコミュニケーションをとることすらできる玩具たちを描いたアニメ映画『トイ・ストーリー』や、フランツ・カフカの短編『家父の気がかり』に登場する奇怪な存在「オドラデク」を参照しつつ、山本は、有害性によって禁じられた存在の魅力に新しい角度から光をあてます。



安全で合理的な社会生活のなかで馴致される過程で否定され、所持することすら許されず、歴史の片隅で忘れられていく運命にあったさまざまな有害玩具たち。その佇まいには、人類の「遊び」が誰かを傷つける危険性を不可避的に帯びてしまうこと、そしてそのことに気づかずに商品化して市場に出回らせてしまうという失敗の悲哀が刻み込まれています。それでいて、そのパッケージや広告の図像からは「子供たちに楽しく遊んでもらう」という元来の無邪気な意図もまたはっきりと読み取ることができます。この無邪気な明るさは、消費者たちの想定外の傷つきやすさ、壊れやすさによって、まるで悪意のある罠が獲物を待ちうけるときの残忍さのように意味を反転させてしまうのです。



有害玩具として製造や流通を禁じられた商品たちは、いわば人間のエゴによって創造され、人間の弱さによって禁忌とみなされるにいたった哀れな存在です。しかし山本の作品に描かれた有害玩具たちは、憐れみを誘い同情を乞うのではなく、山本の絵筆による独特の不気味な世界のなかで明るく朗らかに(?)その存在を謳歌しているようにも見えます。その明るさや朗らかさは実際にはそれで遊ぶ子供たちの身体を傷つけ、成長に悪影響を及ぼすものかもしれません。この加害性や悪影響への懸念は、実は有害玩具に限った性格ではありません。加害性や悪影響から守られるべき存在として位置付けられている子供たちにも残酷さがあります。

子供たちを加害性や悪影響から守る立場にある大人たちもまた、弱い他者を傷つけ破滅させうる存在です。



会場に据えられたヴィンテージの揺り椅子は、木材の家具という懐かしさとともに、現代的なライフスタイルのしたに堆積している過去の暮らし方の気配を濃厚に発散させています。揺り椅子に取り付けられた無数のカラフルな模型の「果物」は、みずみずしい果物のふくよかな香りも甘やかな味わいもなく、軽薄に無機質な存在感を持って揺り椅子にまとわりついています。それはまるで、懐かしい、安心で親しげ(familiar)な家族(family)のかつての姿が、何か軽薄で無味乾燥なイメージだけの存在に感染しているかのようではありませんか。

山本の作品の不穏さは、鑑賞者の無垢性と加害性とのあいだに前提される境界を曖昧なものにして、通底させてしまうことに由来しているのではないでしょうか。