“Priming water (flat characters)” by NISHIMURA Yumi from 20230610 to 20230702
Ritsuki Fujisaki Galleryでは、6月10日(土)から7月2日(日)まで、西村有未による個展”呼水 (図形的登場人物たち)”を開催いたします。
西村有未は、1989年東京都生まれ。2019年京都市立芸術大学大学院 美術研究科博士(後期)課程美術専攻研究領域(油画)修了。博士号(美術)取得。2022年より尾道市立大学芸術文化学部美術学科にて講師を務める。
本展示では、2015年から2023年までの近作となる絵画及び彫刻作品が展示されます。
作家ウェブサイト
https://www.yuminishimura.com/
Flat characters ⇄ risen figuratives ⇄ bumpy matière
本展のタイトルの一部、図形的登場人物(flat character)とは、スイス・ベルン出身のヨーロッパの民間伝承に関する研究者Max Lüthi(1903-1991)による言葉である。 彼のメルヘン(独: Märchen)の研究における主張の一つは、民話や童謡などの物語は、言語や地域、時代に限定されず、共通した様式を持っているというものである。 その一つとして、図形的登場人物という概念が挙げられており、メルヘンにおける登場人物は、どれも図形的(flat)、つまりは平坦であり、余計な装飾を伴っていない。
「これまで見たこともないほど美しい若者だった」と語ることはあっても、その実際について、具体的に記述されることはなく、省略される。同様に、メルヘンの登場人物の感情についても過度に省略が行われていることが述べられている。
西村の作品タイトルに引用されているロシアの童話『雪娘』(Снегурочка)では、無子の老夫婦が雪だるまが変化した娘カーシャを育てるが、ある日、友達と焚き火を飛び越える遊びをしていたところ身体が溶けていなくなってしまう悲話であるが、物語の展開に関する因果、必然性や、娘カーシャの心情の移ろいなどの説明的記述はまるで省略されている。
西村の制作は、この省略された”間”に長く立脚している。 しかしながら、西村の主眼はその物語の欠損を絵画によって埋めることではなく、”間”の存在自体から絵画を展開させることである。 西村は、このテーマに着手した時、「初めは物語に没入させられることがあったが、段々と絵画に立ち戻っていった」と語るが、制作の遷移を見るとその図示的要素が段々と取り払われ、絵画としてのマチエールの比重が大きくなっていることが見てとれる。 と同時に、人間の頭部や犬の臀部などのイメージとして画面に残存しているものもあり、それを「座標のようなもの」と語る態度は、画家としてのプラグマティズム、ひいては作品それ自体の存在の質を担保するものと言えるだろう。
また技法について、タイトル中のに”上巻”と”下巻”によりアプローチが異なっている。 前者について、段々と絵画に立ち戻っていくために、流動性のある絵の具を途中にかけることで、描かれたイメージの持つ意味性(座標)を揺るがしたり遠のかせたりしている。後者について、意味性やイメージを最後まで大事にするため、流動的なマチエールは序盤にしか使われない。 一方で、揺るがせや遠のかせが過剰となる場合、その座標を見失い”過ぎて”しまうため、そこにあらたな座標(序盤の記号的なイメージよりももっと曖昧な姿)を描いて、またリセットを行うことを繰り返している。
この二つのアプローチの変奏は、それを精神的かつ実在的なバランスを保つために行なわれている。
物語自体ではなく、その省略という行為、またはその効果、そして絵の具という物質自体から意味の連関が立ち上がる絵画と作家の実存との関係はユニークである。 民間伝承は、経済的(無駄な装飾を省く)であり、関数的(役割を明示的に持っている)である一方で、西村の制作は反対の性質を持つ、物質と対峙している。
言語における”間”に横たわるエアポケットと、アクチュアリティのある物質から構成されるマチエールという二項対立、その構造自体は独立しており、何の意味も持たない。
しかしながら、その乱気流の中で”座標”を必死に掴もうとする西村の実存によって、その二つの構造の”間”が生み出され、絵画というそれ自体が寓意的(figurative)で曖昧な何かを立ち上がらせているように思える。