RitsukiFujisakiGallery

“Usual group show at an emerging gallery” from 20230114 to 20230205






Ritsuki Fujisaki Galleryでは、2023年1月14日(土)より2月5日(日)まで、山本和真、山本れいら、山本捷平、Taka Konoの所属作家4名によるグループ展”Usual group show at an emerging gallery”を開催いたします。



山本和真


山本れいら



山本捷平



Taka Kono




本展覧会の目的には、作品 (=object)それ自体への関心を引き戻すというギャラリーの態度表明が含まれています。

コンテキストの偏重に見受けられるコンセプチュアリズムが跋扈しているこの100年間、マエストロに代表されるクラフツマンシップへの回帰や資本主義的な力学への怠惰な阿りは見えつつも、未だにその影響はゾンビやフランケンシュタインのように延命、存続されています。

以下に、飯盛元章氏による論考”ようこそ!狂気の怪奇オブジェクト空間へ”を記載いたします。



ようこそ!狂気の怪奇オブジェクト空間へ

飯盛元章

他人とは無限に遠いべつの宇宙である。わたしは他人のすべてを覗き込み、そこにゼロ距離で近づくことはできない。だがその一方で、そうした無限の彼方の闇は、とつじょエネルギーを放射して、予想外の仕方でわたしの宇宙を撹乱する。わたしにはどうすることもできない制御不可能な闇が他人なのである。この点は、事物だって同様だろう。コップや石ころ、iPhone、スニーカー。わたしは一度だって、それらを完全なしかたでコントロール下に置いたことはない。わたしの外部に撒き散らされたさまざまな事物や他人たちは、それぞれが固有の深き闇だと言える。存在するとは、まったくもって隔てられていることである。存在するものどうしは、ただ表面的にかすめあっているにすぎない。

グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論は、このような感覚を表現した哲学モデルである。ハーマンによれば、こうした感覚は、美的対象をまえにしたとき、より顕著なものとなる。わたしは、なんだかわからない作品をまえにしてただ立ち尽くす。美術史の知識を総動員して、それを解説しつくしてやろうとしても無駄である。そうした振る舞いは、鑑賞のしかたがわかっていないたんなる野暮な人のすることだ。作品をまえにした人は、むしろただその重力に引き込まれるがままとなる。アートギャラリーに足を踏み入れるとき、あなたはあらゆるイニシアチブを捨て去って、奇妙なオブジェクトが支配する空間に閉じ込められることになるのだ。

本小論では、ハーマンのオブジェクト指向存在論、とりわけその美学理論について紹介したい。ハーマンは、演劇性にもとづく独自の美学理論を提示している。観者は作品を鑑賞するときにそれを演じている、と言うのだ。この理論はあまりにも奇妙なものであり、ハーマン自身も最初はどこか渋りながら提示しているほどである。まず、オブジェクト指向存在論の基本的な考え方を確認し、そのうえでこの謎の美学理論について見ていくことにしよう。


1.怪奇的な対象で満ちた世界


素朴に世界を眺めれば、わたしたちが住む世界には個体的な対象があふれている。ダイヤモンド、ロープ、猫、海賊船、星野源、ピスタチオ。このようなあらゆるタイプのをそっくりそのまま、哲学の主役にしようというのが、オブジェクト指向存在論の試みである。

ところがハーマンによれば、古代ギリシア以来、おおくの哲学者たちは対象をべつのものへ還元するという戦略を取ってきた。ここでは詳しく取り上げないが、ハーマンはそうした反オブジェクト指向の立場を分類して詳細に論じている。そのなかでも、強力な敵として立ちはだかるのが、「関係主義」(relationism)と呼ばれる立場だ。関係主義は、対象を関係に還元しようとする立場である。ハーマンは、つぎのように述べている。

「わたしたちが今いるのは、関係性の黄金時代だ。ほとんどすべての人たちが結束して、伝統的な独立した実体という考え方に抵抗している。空虚のうちに存在し、ただ偶有的なしかたにおいてのみ影響しあう実体は、毛嫌いされているのだ。対象とは、他の対象に対する効果以外のなにものでもない。現在もっとも影響力のある関係的思想家のひとりであるブリュノ・ラトゥールは、このように述べている」1

関係主義の哲学は、あらゆるものはつねに関係のなかにある、と考える。どんなものも、つねに他のものとのつながりのうちにあり、けっしてその外で自立することはない。他の対象に対してどのような影響をあたえているかということが、その対象のすべてなのである。こうした関係優位の発想は、現代では、哲学に限らずさまざまな領域で影響力を行使している。現代は、まさに「関係性の黄金時代」なのだ。

ハーマンは、こうした時代の趨勢に真っ向から逆らう。「OOO〔オブジェクト指向存在論〕が関心を持つのは、事物の非関係的実在だ」2。ハーマンにしたがえば、対象はむしろあらゆる関係から引き下がり、隠れているのである。それゆえ、「退隠」(withdrawal)こそが、オブジェクト指向存在論のただひとつの根本原理であると言われる3。対象は、他の対象との関係から退隠し、それ自体で自律的に存在している。それは、周囲から到達しようとするあらゆる試みを挫折させる、汲みつくしえない余剰として存在する。言うなれば、対象は、他の対象からはけっして十全にアクセスすることのできない深い闇を抱えているのである。まさにそれゆえに、「対象は怪奇的なのだ」4。この世界には、関係から退隠した怪奇的な対象が満ちあふれている。それらがふと目を覚まし、闇の奥底から見知らぬ性質が吹き出すとき、まるでプレートの変動によって大地震が起きるかのように、世界に劇的な変化がもたらされるのである。


2.狂った観者になる


うえで見たとおり、オブジェクト指向存在論は、非関係的な怪奇的対象を中心に据える。しかし、それらはまったく没交渉的なまま、永遠に沈黙しているのではない。対象はときに関係し、影響をあたえあってもいる。この関係を、関係主義に陥ることがないように説明することが、ハーマンのさらなる課題となる。相互作用のネットワークのなかに対象の自律性を溶かし込むことがないように、対象の間接的な関係性を理論化すること。これが、オブジェクト指向存在論のつぎなる課題である。

そこでハーマンが着目するのが、「魅惑」(allure)という美的効果だ。わたしたちが美的対象に魅惑されるとき、その対象は触れられないものとして経験の領域を占めている。逆に言えば、十全に触れることができ、すべてを見通すことができるようなものに魅惑されることはないだろう。対象にかんしてわたしが思い描くイメージとは結びつかないような性質が差し出されたとき、この対象そのものはなんだかわからない異様なものとなり、その触れられなさが際立つことになる。ハーマンは、ハンマーがとつぜん折れたり、友人が意外な振る舞いをしてきたりするような場合を例として挙げている。魅惑とは、触れられなさが際立つような接触の経験だと言える。ハーマンは、この魅惑という美的効果をモデルにして、あらゆるタイプの対象の間接的な関係を説明する存在論を構築しようと試みる。この意味で、「美学が第一哲学となる」5。これは、〈美学から存在論へ〉という方向性だと言えるだろう。

さて、ここからは、冒頭で予告した演劇性にもとづく美学理論について確認していくことにしたい。うえで見た魅惑の理論が〈美学から存在論へ〉という方向性のものだとすれば、演劇性にもとづく美学理論は、それとは反対の〈存在論から美学へ〉という方向性のものだと言える。ハーマンは、これまで構築してきた存在論モデルにもとづいて、あらためて人間が美的な鑑賞をするさいにどのようなことが起きているのかを説明しようと試みる。この新たな美学理論は、2014年の論文「唯物論では解決にならない」のなかで控えめなしかたで、はじめて提示された。そして、その後もいくつかの論文や本のなかで繰り返し論じられ、最終的に、2020年に出版された本格的な美学書である『芸術と対象』のなかに組み込まれるにいたっている。この理論は、詩における隠喩表現の鑑賞を例に説明されることが多いが、ここではハーマン自身ももちいているピカソ作《アヴィニョンの娘たち》を鑑賞するさいの経験6を例にして説明することにしよう。

ハーマンは、わたしが《娘たち》を鑑賞するとき、この関係性自体がひとつの対象となり、「わたし+《娘たち》」という新たな対象が創発するのだと考える。観者としてのわたしは、この新たな対象のうちに引きずり込まれることになる。

ここで、つぎの点に注意をする必要がある。第一に、わたしも《娘たち》も怪奇的な対象であり、どちらも直接的な関係から退隠している、という点だ。《娘たち》は、わたしに対してキャンバス上のさまざまな性質(たとえば顔の歪みなど)を残し、自らはその背後へと退く。第二に、「わたし+《娘たち》」もまた怪奇的な対象であり、直接的な関係から退隠している、という点である。関係主義においては、ひとつの広大な関係のネットワークが存在する。あらゆるものは、その他のあらゆるものと結びつく。それに対して、オブジェクト指向存在論においては、個々の関係それ自体がひとつの自律した対象とみなされ、それを超えた広大なネットワークから切り離されることになる。最後に、注意すべき3つ目の点は、関係性における非対称性である。ここで考察されている「わたし+《娘たち》」は、あくまでもわたしを基点にした《娘たち》との関係性だ。それを反転させて《娘たち》を基点にした場合には、またべつの関係性になってしまうのである。

まとめよう。美術館を訪れ、ふと《娘たち》に目をやる。そして、その魅力に引き込まれていくにつれて、わたしは孤立した関係性空間に引きずり込まれることになる。だが、この空間のどこにも《娘たち》はいない。《娘たち》は退隠している。わたしの目のまえには、ただ《娘たち》が残していったキャンバス上の性質だけがあるのだ。

ここでハーマンは、さらに奇妙な理論を付け加える。キャンバス上の性質は、《娘たち》が退隠している以上、それとは結合できないまま浮遊することになってしまう。そこで、この性質は観者であるわたしという対象と結びつくことになる、と言うのだ。「アヴィニョンの娘たちを演じ、キャンバス上の感覚的性質の支えとなるのは、わたしである」7。わたしは、キャンバス上のさまざまな性質を身にまとい、不在の《娘たち》を演じるのだ。孤立した関係性空間のなかで、その空間を支配する不在の《娘たち》に成り代わって、それを演じるのである。美的対象に引き込まれ、それを鑑賞しているときには、まさにこうしたことが生じている、とハーマンは主張する。

この美学理論は、あまりにも奇妙であり、そして狂っている。そんなふうに感じられるかもしれない。だが、この「狂っている」という点こそが、美的鑑賞において重要なのだ。ハーマンは、アリストテレスを引き合いに出し、観者はほとんど狂気じみていなければならない8、と主張する。つまり、美術作品を鑑賞するとは、退隠する対象を狂気的なしかたで没入的に演じることなのである。アートギャラリーを訪れるとき、わたしたちは狂った観者となる。そこを訪れた人々は、たがいに無関係のまま、孤立した関係性空間に引きずり込まれる。そして、それぞれの空間のなかで、狂った観者となり、退隠する美的対象を演じるのである。アートギャラリーとは、このような狂った諸空間の空間だと言えるだろう。


1 Graham Harman, “Aestheticizing the Literal: Art and architecture,” in Michael Benedikt and Kory Bieg (eds.), CENTER 21: The Secret Life of Buildings, Austin: Center for American Architecture and Design, 2018, p. 62.

2 Ibid., p. 63.

3 Cf. Graham Harman, Guerilla Metaphysics: Phenomenology and the Carpentry of Things, Chicago: Open Court, 2005, p. 20.

4 Graham Harman, Prince of Networks: Bruno Latour and Metaphysics, Melbourne: re.press, 2009, p. 188.

5 Graham Harman, “On Vicarious Causation,” in Collapse II (2007), p. 205〔「代替因果について」岡本源太訳、『現代思想』2014年1月号、113頁〕

6 Cf. Graham Harman, “Aesthetics and the Tension in Objects,” in Niki Young (ed.), [met]afourisms: Art Practice and Documentation, Malta: Midsea Books, 2018, p. 17-18.

7 Ibid., p. 18.

8 Cf. Graham Harman, “Materialism is Not the Solution: On Matter, Form, and Mimesis,” in The Nordic Journal of Aesthetics, No. 47 (2014), pp. 109〔「唯物論では解決にならない─物質、形式、ミーメーシスについて」小嶋恭道・飯盛元章訳、『現代思想』2019年1月号、243頁〕.