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YAMAMOTO Kazuma




山本和真は1998年東京都生まれの現代アーティスト。2019年から東京藝術大学油画専攻に在籍。

インターネットでユーザーたちがときに露悪的に複製し拡散させていく「ミーム」(meme)に注目し、その不穏さと遊戯性をモチーフにした作品が多い。



『Mariana』は、一見して3DCGモデルとわかるヒト型の図像が水色の空間に無数に浮遊している。海難事故や水死体を即座に連想させる不穏なモチーフでありながら、生命の痕跡を持たず、体温を感じさせないCG風の図像たちから苦しみを読み取ることは難しい。感情や感覚を取り去った、肉感のない身体が詰め込まれ、大気中の重力とは違った原理のなかを漂うような場面を前に、鑑賞者は自分の現実感を相対化され、居心地の悪い思いを誘発されるだろう。



2021-2022年の『【orga】』は、アニメーションスタジオ「ドリームワークス」の名作シリーズ『シュレック』の主人公がメインモチーフになっている。人間に嫌われている怪物という初期設定がなされていたが、物語が進行する過程で人間に受け入れられていくキャラクターだ。シュレックはオーガという、日本でいえば「鬼」にあたるモンスターである。神話におけるオーガも、鬼も、どちらも「人間」の範疇の外で、人間に隣接しながら人間に敵対し、忌み嫌われてきた。このモチーフを山本はウィレム・デ・クーニングの『Woman』を参照しつつ描いている。

これまで山本が描いてきた作品では、集団自殺事件で知られるカルト宗教団体や、あきらかに食用ではない洗濯用洗剤「タイド」のカプセル(ポッド)を「食べる」動画を競うように投稿する「タイドポッドチャレンジ」などが、モチーフとして選ばれてきた。表面的なイメージは明るく溌剌としていながら、作家の意図とは別に、意味を知ってしまえば死を連想してしまったり、不和の予感を感じさせるものが多いのだ(タイドポッドチャレンジでも死者が出ている)。

信仰上のメッセージを発するわけでもなく、また健康被害の注意喚起をするわけでもなく、山本が描こうとしているのは、それ自体は無垢なはずのイメージが不穏さを帯び、不穏さを帯びてもなおイメージが無垢であり続けるという両義性かもしれない。死と平穏、陰と陽が、ただ画面のなかに同居している様子は、モチーフのポップさの印象に反して、山本が参照元として名前を挙げる北方ルネサンスの画家ヤン・ファン・エイクの作風に確かに近い。

山本の作品のなかで、ファン・エイクのような冷たい写実性と同居しているのは、懐古趣味的な、それでいて古典的というほど古めかしくはない、前世紀的な意味でのポップさをサンプリングしたタッチだ。前世紀の広告写真や印刷物を明らかに引用しつつ、もうひとつ山本が擬懐古趣味的にめくばせを送るのが、イタリアのトランス・アヴァングァルディア(トランス・アヴァンギャルティア)と、ドイツ新表現主義の文脈だ。

トランス・アヴァングァルディアは、20世紀に一世を風靡したバーネット・ニューマン以降のアメリカ抽象表現主義の抽象的で静謐な前衛性や、抽象表現主義を批評面から支えたクレメント・グリーンバーグらの硬質な文体が醸し出す排他的な雰囲気への反動として、フランチェスコ・クレメンテ、エンツォ・クッキ、サンドロ・キアというイタリアの作家たちを中心に見出された芸術運動、作品群だ。クレメンテ、クッキ、キアの3人はその頭文字から「3C」と呼ばれる。

ロイ・リキテンスタインらのアメリカポップアートや、先述の抽象表現主義に対するヨーロッパ大陸側からの反応として、3Cらのトランス・アヴァングァルディアがイタリアから提出されたとすれば、ドイツからの応答が、資本主義リアリズムやドイツ新表現主義だ。山本がトランス・アヴァングァルディアと並んで名前を挙げる自らの参照元には、ジグマー・ポルケがいる。ゲルハルト・リヒターとともに資本主義リアリズム運動を展開した作家だ。手抜きの極致のようなその作品は、それ以外の方法では描き出すことのできないリアリティと、崇高さと洒脱さを共存させている。

山本の作品は、時代や地域を超えて参照されるさまざまなスタイルの折衷でありながら、その折衷の際の接合面のあやうさと、モチーフのあやうさが呼応しあう。死や痛み、苦しみ、恐怖や不快さといったネガティブな要素が、その重ね合わせのあゆうさの上で、暴力的でありながら無邪気に戯れはじめるのだ。