“Who said it was simple?” by YAMAMOTO Layla from 20220415 to 20220508
2022年4月15日 (金) から5月8日 (日) まで、山本れいらによる個展「Who said it was simple?」をRitsuki Fujisaki Galleryで開催します。
山本れいらは、1995年・東京都生まれの現代アーティストです。10代で渡米し、シカゴ美術館附属美術大学に進学した山本は、在米中に体感した日米の文化間のギャップを重要なテーマのひとつとして制作しています。現在は日本を拠点としており、滞米経験をもつ日本人作家としての視点が同時代のアーティストの中でも山本を際立たせる特徴になっています。
昨年、2021年末に日本橋三越前で開催された個展「After the Quake」(Souya Handa Projects)では、震災と原発事故を起点に原子力を巡る日米関係をモチーフとした作品群を展示。2020年開催のグループ展「New New New Normal」(GALLERY MoMo Projects)では、妊娠・出産への社会的抑圧をテーマに、カール・マルクスやマーガレット・アトウッド(小説『侍女の物語』『請願』で知られるカナダの作家)の言葉を組み込んだ作品シリーズを発表しました。
コマーシャルギャラリーでの初の個展となる本展は、男性の視点に偏って提示されてきたアニメカルチャーに対して、女性からのフェミニズムの解釈を加えた作品を通して新たな視点を作り出すことを目的としています。
本展は、作家が新たに制作した
- Who said it was simple?
- Flawless
- I hate flowers
の3つの新シリーズから構成されます。
本展示タイトルと同名の「Who said it was simple?」シリーズは、階級化された力の不均衡や他者性が存在するはずの女性たちそれぞれの問題が、「simple」に「女性」の問題として単純化されてしまうことに抵抗するための作品群です。こうした単純化によって様々な背景を持つはずの女性たちは、よりマジョリティの「女性像」に同質化されてしまい、それぞれが受けていたはずの異なる差別や抑圧が不可視化されてしまいます。マジョリティへの同質化に迎合することを拒み、お互いの他者性を保ちながら連帯しようとすれば、衝突や痛みは避けられません。しかし家父長制を真に打ち破り、フェミニズムを社会的に達成させるには、こうした「simple」な力学に抗わなくてはならないのです。
「Who said it was simple?」というシリーズ名は、フェミニズムの「白人中心性」に焦点を当てた詩人オードリー・ロード(Audre Lorde)の詩のタイトルから引用しています。
画面の中央にはアニメ絵調のふたりの少女が見つめ合う姿で描かれ、お互いを理解し合い連帯する目指すべき理想像を表しています。
一方、背景に描かれている一見親密そうな女性像は、ジェニー・サヴィル(Jenny Saville)のような粗い筆致を借りて、女性たちのあいだに存在しうる他者性による衝突や痛みもまた示唆しています。
こうした対比関係を通して、アニメの中のシスターフッド像と現実との間にあるギャップを示しつつも、それでも作家が幼い頃から観てきたアニメの中にあるような連帯の達成を追い求めています。
ビヨンセの歌のタイトルを引用した「Flawless」シリーズは、サンプリングされた美容外科や歯科の広告イメージにアニメの少女像を重ね合わせています。広告イメージで強調される「笑顔、白い歯、なめらかな肌、美しい顔」の「完璧な成人女性像」はそのまま女性たちに向けられる抑圧となり、少女アニメで繰り返し描かれてきた「成長して自由を獲得していく」という物語と逆行するものです。
「完璧な笑顔」の広告の女性像と、敵を前にした「泣き顔/怒り顔」の少女のアニメ絵によってふたつに分割された画面は、笑顔の女性像が現実の女性に対して抑圧を強いる「敵」であることを示しています。
また、広告的表現でフェミニズムアートを推し進めたバーバラ・クルーガー(Barbara Kruger)の手法を踏襲してこのシリーズの画面に掲げられた文字と言葉は、作家チママンダ・ンゴジ・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie)の発言を参照しています。2019年に邦訳版が文庫化され話題になった『何かが首のまわりに』や、20世紀後半のナイジェリアで勃発したビアフラ内戦を描いた『半分のぼった黄色い太陽』などで知られるアディーチェは、2012年にTEDxトークイベントで「We Should All Be Feminists」と題したは講演を行いました。2013年に歌手のビヨンセが引用して話題になった言葉はこの講演で話されたものでした(この講演を書籍化したものは河出書房新社より『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』として邦訳されている)。「Flawless」シリーズで参照されているアディーチェの言葉は、社会がいかに男性社会に迎合することを少女たちにその成長過程で教えこみ抑圧するかを表しています。
「I hate flowers」シリーズは、、ジョージア・オキーフ(Georgia O’Keeffe)の有名な花のシリーズをベースにした一見可愛らしい作品群ですが、少女アニメに向けられるまなざしへの批判性を秘めています。
「I hate flowers」というシリーズ名は、オキーフの言葉です。なぜオキーフは花を憎んだのでしょうか。オキーフの花のシリーズは「女性器のメタファー」というセクシャルな解釈によってオキーフに商業的成功をもたらしました。
花弁の中の蘂(しべ)で受粉が行われることから、「花とは、草木にとっての性器である」という言い方が頻繁になされてきました。
オキーフの花のシリーズもまた「花=性器」というステレオタイプな解釈に晒され、フロイトの精神分析理論も援用されながら性器をメタフォリックに描いているとしばしば語られます。オキーフは拒絶していたにも拘わらず、オキーフの夫であった写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)によってそうした解釈は推し進められました。また後世のフェミニズム・アーティストであるジュディ・シカゴ(Judy Chicago)もオキーフの作品を女性器のメタファーとして扱う解釈に乗り、フェミニズムアートに位置付けようとしました。
「I hate flowers」シリーズは、オキーフの花の作品群が持つこうした背景と、時に少女向けアニメが受ける男性からの性的なまなざしを重ね合わせています。
オキーフのような女性アーティストによる作品が男性からのまなざしによって安易に性器と結び付けられてしまったように、少女向けアニメもまたしばしば男性のオーディエンスによって性的な消費の目線に晒されています。
社会的な下位に置かれながらも、同時に男性からの性的なまなざしがついてまわる女性文化を取り巻く現実に対する作家の批判が込められているのです。
本展では一貫して、日本人、女性、キャラクターと何重にも疎外された「顔」が提示されます。
自分のものではないはずなのに、その目を見つめているうちにいつの間にか引き込まれてしまうような「顔」は、私たち個人の顔ではなく社会の似姿なのかもしれません。こうした「顔」を通して見えて来る社会の姿を心に留めて、皆さんの日常に持ち帰っていただけますと幸いです。
※この文章は本展のキュレーターである永田希が起草したものを、作家が編集し、協議を経て公開されています。
以下は、山本浩貴様、吉良智子様よりいただいた展評を記載いたします。
複数形のフェミニズムとその外部
山本れいら個展「Who said it was simple?」に寄せて
山本浩貴
本展では、「Who said it was simple?」・「Flawless」・「I hate flowers」という3つの新シリーズが披露されている。これらはいずれも絵画をメディウムとするが、絵画という「伝統的」な——それゆえに男性中心的な力学が根強く残存する——領域に果敢に切り込んでいることは重要な点である。本稿では筆者なりに各シリーズを読み解き、そこから同展と作家に関連した美術史的考察を展開したい。
「Who said it was simple?」シリーズの作品は二重構造を備えている。背景にはおそらく女性と思われる複数の人物が荒々しい筆致で描かれているが、顔を寄せ合う「彼女」(とりあえず、このように呼称する)たちはきわめて親密な様子に見える。ここで比較対象として挙げたい作家はブリティッシュ・ブラック・アーティストのクローデット・ジョンソンである。大胆なストロークから構成される彼女の絵画は、「黒人」や「女性」に付与されたステレオタイプ的表象を打破する力を蔵する。こうした背景に重ねられるイメージが、日本のアニメを思わせるイラスト調で描かれた2人の女性像である。背景に現れる女性たちと同じく、「少女」とも呼べる容貌の「彼女」たちは親密な雰囲気をたたえながら至近距離で見つめ合っている。さらに各作品の画面の上部と下部には、シンプルで力強い言葉が掲げられている。いずれの言葉も女性同士の連帯を志向しながら、同時に互いの差異を認め合うことの重要性を説くスローガンである。グラフィック的要素も盛り込んだこうした手法は、フェミニスト・アートの歴史に偉大な足跡を残したバーバラ・クルーガーやゲリラ・ガールズの作品を彷彿とさせる。
次の「Flawless」シリーズの作品は、「Who said it was simple?」シリーズよりも小型の絵画群だ。だが、このシリーズも二重構造をなす。正方形の画面を二分する縦線の片方には、美容外科や歯科の広告に登場する女性像をサンプリングして描かれた顔半分が現れる。こちらの顔に現れるのは、「屈託のない明るい笑顔」や「美しく透き通った肌と輝く白い歯」といった、男性を中心とする「社会」のなかで女性が期待される態度や外見を構成する要素だ。逆側には、「Who said it was simple?」シリーズと同じく、日本のアニメ絵に特有のタッチで描かれた女性(少女)の顔半分が見られる。そこに現れる泣き顔や怒り顔をたたえた「彼女」たちは、感情のコントロールに苦しんでいるよう見える。だが、その表情からは他者による馴致を拒む強い意志や自らの気持ちに覆いを被せることを是としない明確な姿勢が読み取れる。こうした姿勢をもつ女性は、先ほどとは反対に男性支配的な「世間」において疎まれる存在だ。それは男性が恐れ、躍起になって排除しようとする女性の姿である。また、本シリーズでもグラフィック的なテキストが巧みに挿入されている。そこには、女性たちが日々の暮らしのなかで受信する社会的圧力としての「教育的」・「矯正的」メッセージが、簡潔なかたちで言い表されている。
両シリーズに共通して前景化されているのは、現実の女性たちの多様性と、広い意味の思想としてのフェミニズムにおける複数性である。「Who said it was simple?」シリーズでは、女性たちの異なるつながりのかたちが提示されている。ただし、そこでは単純な親密性や同一性を基盤にした結束だけではなく、ときには衝突や差異を恐れないことで可能になる、「女性」内部における他者性の受容も寿がれているように見受けられる。一方、「Flawless」では社会が押し付けてくる一枚岩的な理想像としての「女性」が、現実の多彩な女性たちを抑圧する構造が批評的に視覚化されている。そうした女性たちの対立の背後に亡霊のごとく浮かび上がるのは、現代日本で優勢な家父長制や父権主義の存在である。
このように、山本れいらの作品が鋭い社会・政治的批評性を備えていることは明白だ。加えて、ラディカル・フェミニズムやジェンダー/クィア理論からの巧みな参照は、彼女の絵画を豊かな外部へと接合する。また、見てきたように、山本は美術史的文脈にも丁寧に目配せしていることは明らかである。フェミニズム・アートのパイオニアたちに関する文献を渉猟しながら、彼女は作品にコンテクストの重層的レイヤーによる厚みと深みを加えている。こうした特性は、それがすべてではないだろうが、山本が受けてきた教育の無視できない影響を感じさせる。彼女は10代で渡米し、アメリカのシカゴ美術館附属美術大学でアートを学んだ。欧米の美術教育の現場では、作品がどのようにより広域な社会的側面と接続しているかがつねに問われる。私がアートを学んだロンドン芸術大学も同様であったし、山本の鋭い批評意識が「クリット」(欧米の美大でよく見られる、学生と教員を含めたディスカッション形式の講評)を通じて鍛えられたことは想像に難くない。
だが、実際の作品を目にして、山本の絵画は単に外的な社会的文脈と結びついているだけではないと私は感じた。すなわち、そこには外部への開かれと同時に内的自律性も存在していると感じたのだ。そうした自律性は、山本の作品においてタブローそれ自体が不断に思考し、絶え間なく自分自身と交渉しているような感覚に由来するものだ。芸術作品の自律性はモダニズム批評が信奉し、ポストモダニズム批評が打ち破ろうとしてきたものだ。しかし、山本れいらが創出する絵画作品は外部への開放と内部の充溢を巧みに両立させることで、芸術のモダニズムとポストモダニズムという二元論を宙吊りにする可能性をも生んでいる。
ここで美術史的な迂回路を挿入したい。それは、アーティストの村上隆が1990年代に考案した「スーパーフラット」の概念である。村上は、美術という枠組みをこえてベストセラーになった自著『芸術起業論』(2006年)で自ら披露しているように、欧米中心に構成された現代の「アートワールド」の不文律を自力で研究し、その入念な「傾向と対策」を通じて世界的なトップ・アーティストの一人となった。そのときに用いた戦略のひとつが、「サブカルチャー、それもとりわけオタクと呼ばれる日本特有の趣味の領域」(椹木野衣『増補 シミュレーショニズム』ちくま学芸文庫、2001年、88–89頁)を現代アートのなかに取り入れる手法であったことはよく知られている。村上がそうした自らの手法を一言で言い表すために発明した「スーパーフラット」概念は、しかし、日本のサブカルチャーが拭い難く抱えていた、男性目線から一方的に構築された少女や女性の像に含まれる男性中心主義を温存していた側面があったように思われる。美術史的な見方をすれば、本展における山本の試みは、2000年代以降の日本の現代アートを席巻し、欧米からはその代表格とされるこうした流れをフェミニズムの視点から批判的に脱構築するものであると解釈できる。
このように、「Who said it was simple?」と「Flawless」の両シリーズの絵画作品における政治・社会的批評性の鋭さや、それらの美術史的文脈への批判的介入性に疑問の余地はない。加えて、先述の通り、タブローとしての完成度も高い。ではここで、山本自身が非常にすぐれた言語的分節化の能力を保有していることをどのように考えればいいだろうか。それは一方で、たしかに、彼女の作品においてコンテクストの重層性や濃密な批評性を担保することに寄与している。だが他方で、そうした高い言語化能力は視覚化・表象されたものの領域から逃れ出る残余や余白を無化(あるいは、あらかじめの排除 foreclose)してしまうリスクを伴うのではないか。もちろん、このことは「アーティストは口下手なくらいがいい」とか「アーティストはあまりたくさんの本を読みすぎない(知識を詰め込みすぎない)方がいい」といった素朴なステレオタイプにまみれた「上から目線」の発言とはまったく異なる。作家自身も、自らの言語的理解力と非言語的領域のポテンシャルのあいだの緊張関係に自覚的であるように私には思われた。
ここで、まだ言及していない本展における最後のシリーズ「I hate flowers」を登場させたい。このシリーズの作品では、どちらが「背景」と断定できないような仕方で、花とアニメ調の少女イメージが重ねられている。また、ほかのシリーズとは異なり、文字は一切挿入されていない。私は、本シリーズは、あえてほかのものよりも感覚的に制作されていると感じた。すなわち、これは山本にとって、言語的・知的な分節化から逃れるものをどうにか捕捉しようとする新たな形式の模索としての実験と捉えることができるのではないだろうか。
もちろん、ここにも美術史的文脈は巧みに編み込まれている。このシリーズに登場する花が、ジョージア・オキーフの作品をモチーフにしていることは明らかだ(「I hate flowers」という言葉は、彼女が発したものだという)。オキーフのシグニチャーである「花」は、しばしば女性器のメタファーとして解釈されてきた。しかし、近年の実証的研究では、こうした定着している解釈は商業的理由で推し進められた側面が強いことがわかっている。また、後世のフェミニスト・アーティストたちもこうした解釈を追認してきたと言える。オキーフがフェミニズムの思想と響き合う考えをもっていたことは疑いないが、しかし、山本の「I hate flowers」シリーズは彼女を強制された「フェミニスト」像から解き放つものだ。
このように、山本れいら個展「Who said it was simple?」における多様な作品は、日本の現代美術史がはらむ男性中心主義を力強く糾弾する。そして、返す刀で、絶対的理想像を掲げ、「女性」内の多様な差異から目を背けさせる(さらに悪いことには、それを悪しきものとして扱う)ような、一枚岩的な「フェミニズム」にも批評的に切り込んでいく。そこで前景化されているのは、現実のさまざまな女性たちに寄り添う複数形としてのフェミニズムのあり方だ。
だが、山本が取り組むべき挑戦は、まだ数多く残されている。その一例が、先述した言語とその残余が織りなす問題系である。その非言語的残余はまた、これからの複数形のフェミニズムのあり方を示していくことにいかなる仕方で貢献しうるだろうか。また、今回の展覧会で扱ったテーマは、前回の展覧会で扱った震災と原発事故を起点に紡がれた原子力をめぐる日米関係に関する彼女の思索をどのように深化されるのか。その接点はどこに見出せるのか。今回の展覧会ではその系譜であるとともに批判的乗り越えの対象としても想定されていた村上の「スーパーフラット」概念や、それに続く彼の「リトルボーイ」展が同様の問題(日米関係の両義性)を要諦としていたことはきわめて興味深い。この複雑な歴史-政治的イシューを考えるうえで、フェミニズムという視座はどのように新しい風を吹き込むのだろうか。
最後になるが、現実の女性たちにしっかりと寄り添いながら、統合された「女性」の概念やイメージを解体しようと奮闘する山本の姿勢は、私に竹村和子の次の言葉を思い出させた。2011年に惜しまれながら逝去した竹村は、言わずと知れた日本におけるフェミニズム/セクシュアリティ研究の大家だ。『愛について』(2002年)のなかで、彼女はこう言う。
たとえ「母なるもの」「女なるもの」が空無を土台にしてつくられた堅固な建造物であったとしても、その建物にはかならず人が住まい、人は建物の窓を開け、扉を開け、いつしか招くべきでない人も招きよせ、また招くべき人を招くべきではない方法でもてなし、わたしの住居はその外観を変えて、さらにはわたしの住居に面した通りの名前も変わるかもしれない。そのときわたしを説明する《名前の法》はその地勢を変えて、わたしはべつの名前で呼ばれるようになるだろう。だからわたしがいる場所は、そしてあなたがいる場所も、この街並みの向こうの原初の森のなかでも、空中に浮かぶ楼閣のなかでもない。わたしたちは《名前の法》が地番を刻む——刻みつづけている——そのただなかに住みながら、その〈住所表示/呼びかけ(アドレス)〉の名前を変えていく(竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』岩波現代文庫、2021年、224頁)。
「女性」という「建造物」に貼り付けられた〈住所表示(アドレス)〉の名前を変えようとする山本の芸術を通じた挑戦は、これからも長く継続されていくだろう。そして、そうした彼女の〈呼びかけ(アドレス)〉がより多くの鑑賞者に届けられることを願ってやまない。本展は、その重要ないちステップになるはずだ。
道/未知のその先に見える景色をつくる
吉良智子
フェミニズムやジェンダーの視点から作品を批評するとき、大きく分けてふたつの方法がある。ひとつは女性作家の作品やライフヒストリーを、無限に広がる歴史の海から救い上げたり、よく知られた女性作家ではあっても、フェミニズムやジェンダーの視点から見直すことで新たな光を当てたりする方向性。もうひとつは家父長制社会の中で生み出されてきた女性像の「歪み」を見つめなおす方向性。個展「Who said it was simple?」において、山本れいらは、作品を通してそのふたつを同時進行させる。
《Who said it was simple?》シリーズには、「インターセクショナリティ」(交差性)概念の構築に貢献した詩人オードリー・ロード(1934-1992)の詩を引用しながら、画風のまるで異なるふたつの女性像が描かれる。大胆な筆致で描かれた女性たちを背景に、1990年代に放映されたアニメ「美少女戦士セーラームーン」シリーズの主要キャラクターである月野うさぎとちびうさを彷彿とさせる女性たちが重ねられている。前者の女性たちは唇や頬を寄せ合い一見親密な関係性を思わせるが、女性たちの目は固く閉じられて互いの視線が合うことはない。視線を合わせる行為は、相互に相手の心や考え――それがどのようなものであれ――に関心を抱き理解したいと願う行動であろう。不穏な雰囲気をまとう女性たちは、そうした願いを持ちつつも互いに傷つき諦めてしまったのだろうか。だが、相違を認めつつ共有できる何かを見出すよう促す力強い詩のメッセージは、うさぎとちびうさに受け継がれている。「美少女戦士セーラームーン」シリーズは海外に輸出され、1990年代に少女期を過ごしたさまざまな地域の女性たちに現在でも人気の高いアニメ作品である。少女たちがチームで戦うセーラー戦士は、同時代の英米圏で起こった、若い女性たちをエンパワメントする「ガールパワー」とも結びついている(須川亜紀子『少女と魔法 ガールヒーローはいかに受容されたのか』NTT出版、2013)。うさぎとちびうさは互いに見つめ合うことで喜びや悲しみの感情あるいは経験を共有する。それはある種のユートピアかもしれないが、「女の友情はもろい」など家父長制が生み出した、女性を分断しようとする言説が消滅したとは言えない日本社会においてまだまだ有効なのである。
「Flawless」シリーズは、作家チママンダ・ンゴジ・アディーチェの言葉とともに、左右の顔が異なるテイストで描かれた女性がこちらをみつめ返す。片方は山本が今回主要モティーフに取り上げた少女アニメのキャラクター、もう片方は二重の大きな瞳に鼻筋の通った高い鼻、ふっくらとした唇の魅惑的な笑顔の女性像である。美容整形の広告に使用される完璧な女性の顔は、若い女性に「理想的な」顔になることへの欲望とそれを実現できない場合の恐怖をあおる。滑らかなつやのある画面は、一層そうした女性たちの美しいけれども定型化された「美」を強調する。「理想的な」顔とはうらはらにアニメの少女たちは、涙し憎しみを見せる。チママンダの言葉は、少女たちに課される家父長制社会からの圧力――美を競い合い、人生に妥協し、自己評価を下げて決して男性を脅かしてはならない――を明らかにしている。それらの「教訓」は家父長制社会を保持したい側にとっては実に都合がよい。日本ではローティーン向けの書籍に通称「女のさしすせそ」と呼ばれる、異性愛社会において女性が男性に選ばれるための「モテテク」指南――それは菊地夏野が『日本のポストフェミニズム :「女子力」とネオリベラリズム』(大月書店、2019)で指摘する、新自由主義社会のなかであたかもフェミニズムは終わったかのように語られるポストフェミニズムにおいて、女性を分断する「女子力」の一種であろう――が平然と掲載される現状を鑑みると事態は深刻だ。つまり美容整形の広告などの表象とは現実を表わしたものではなく、表現された対象に社会が向ける欲望のまなざしだからである。
近代日本の美術にまつわる概念やシステムは近代化とともに西欧から輸入された。その際に美術における西欧のジェンダー観も取り入れることになった。「花」は女性アーティスト向けのモティーフとされ、西欧でも日本でも多くの女性アーティストたちが好むと好まざるとにかかわらず、取り組まされてきたと言っても良いだろう。
「I hate flowers」シリーズは、ジョージア・オキーフの有名な花の作品群を引きながら、やはりそこに少女アニメのキャラクターをこの作品では後景に配する。透けた花の向こう側には、時にぼんやりとした顔を、時に困ったような表情を見せる少女たちがいる。夫アルフレッド・スティーグリッツをはじめ周囲から不本意に性的な作品解釈をされたオキーフと、本来少女に向けに制作されるアニメの女性キャラクターが、男性視聴者の性的なまなざしの対象として消費される状況は、オキーフ没後四半世紀を超えてなお、困難な現実を突きつける。
もうひとり日本でもクローズアップした花を描いた女性画家に吉田ふじを(1888-1987)がいる。夫は版画家・画家として知られる吉田博(1876-1950)で、アーティスト・カップルとしてともに長い画業を歩んだ。ふじをは水彩で具象的な風景画や静物画を手掛けていたが、博が亡くなった後、がらりと画風を変え油彩画でオキーフのような抽象的な花を描いた。近代の女性アーティストにとってある意味枷でもあった花にあえて取り組んだオキーフとふじを。彼女たちにとってそれがどのような意味を持ったのかはわからない。ただ、それまでのジェンダー規範内での花というモティーフとはやや異なる位相にあることは確かだろう。
冒頭で提示したフェミニズムやジェンダーの視点から作品を批評するときのふたつの方法を、山本の作品に則して語るなら次のことが言えるだろう。ひとつめは、造形に限らず過去の女性アーティストたちの作品と自らの作品との連続性を示しながら、アートの歴史の中に女性アーティストを位置付けるという試みである。女性アーティストの歴史を紡ぐ作業は、現状の美術の歴史が男性のものになっている以上必要である。その道は、女性アーティストのゲットー化や本質論的な言説への囲い込みなどの危険が常につきまとう。だが最終的には普遍的美術の語りの解体を目指す、そのための一里塚として大切な仕事であろう。
ふたつめは、家父長制社会に都合の良いように表現されてきた「女性」を自分の手に取り戻すという試みである。少女アニメをモティーフにした背景には、作品によって示されたように、少女アニメが、ハイアートにしろ、サブカルチャーにしろ、家父長制社会の中で歪められ、モノ化され、消費されてきたことに由来する。幼少期の山本をエンパワメントし女性の連帯を示した少女アニメを、自らの手で再定義し作品化した。その試みは他の女性たちもエンパワメントするに違いない。
山本は女性たちの間の差異を認めつつ連帯するあり方を、作品と向かい合いながら提示する。それは非常に困難な道だ。さまざまなレイヤーによる女性の分断はそれ自体が深刻であるのみならず、分断をあおる権力が常に存在するためである。それでもこの世界の中で大きな力を振るう家父長制社会に抗うために、山本の作品は、注意深く互いの声そして自分自身の声に耳を澄ましながら、どうなるかはわからない未知の未来において、少しでも呼吸のしやすい社会に変えていく道しるべのひとつに違いない。それらは女性を規定しようとする権力に抗いながら、他者によって定義されることのない「私」を何度でも奪い返し、立ち上げていく力に満ちている。